| Home |
2016.04.30
日本防衛戦略「核抑止編」】―「危機に立つ日本」を護る核装備
この文章は、HRPニュースファイルへ、寄稿させていただいたものです。
◆危機に立つ日本
「水爆」実験や長距離弾道ミサイル発射で、核ミサイル保有を進める北朝鮮ですが、28日にも午前と午後に、中距離弾道ミサイル「ムスダン」を一発ずつ発射しました。
韓国軍は、いずれも「発射直後、数秒以内に墜落した」と分析しています。ちなみに「ムスダン」は、射程3000~4000キロメートルのミサイルです。
また軍事的に膨張する中国(2016年度の中国国防費は、公表分だけで約16.7兆円、28年間で約44倍)、日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増しています。
朝鮮半島、尖閣諸島・沖縄、台湾海峡、ベトナムやフィリピン近海等は、紛争の発火点として、いつ起きておかしくない状態にあります。
幸福実現党は、日本を護り抜き、「世界の正義」を推し進めるために、以下を取り組みます。
〈1〉「言論・思想戦」
〈2〉「外交戦」=「日米同盟」を強化(「米中同盟」を阻止)し、インド、ロシア、台湾、オーストラリア、モンゴル、東南アジア諸国、島嶼国などと友好を促進、経済・安保両面で連携強化を図り、中国や北朝鮮の民主化・自由化を促すための外交
〈3〉「強靭な防衛力」の構築
◆正当防衛としての核装備
中国や北朝鮮からの「核を使っての恫喝や侵略」を思い止まらせる抑止力強化へ、正当防衛としての核装備も進めます。
核兵器の最大の効能は、「他の核兵器保有国に核兵器を使わせない」ということです。
「中国や北朝鮮が核兵器を使った場合には、日本からも核兵器を使われる可能性がある」ということが最大の抑止力になるわけです。
以下、核抑止の理解を深め、日本の核抑止戦略、防衛戦略を考察するために、3回に分けてと論を進めて参ります。
第1回は、核兵器の種類、核兵器の特性、抑止戦略の種類
第2回は、アメリカの核戦略の変遷と教訓
第3回は、核装備プラス日本版SDI(私案)
◆核兵器の種類
核兵器の種類には大別して「戦略核兵器」と「戦術核兵器」があります。中間に「戦域核戦力」(後に「中距離核戦力」)と改称)はありますが、詳述は省きます。
「戦略核兵器」は、敵国の戦略核戦力や政治・経済中枢に対する攻撃に用いられ、戦争の決をつける核兵器であるため、「戦略」の名が冠せられます。
対ソ冷戦期の米国の「戦略核戦力」の態勢は、同時に一挙に破壊されないよう(「抗堪性(こうたんせい)」の保持)、次の「三本柱」で成り立っていました。
〈1〉「大陸間弾道ミサイル(ICBM)」
〈2〉「潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)」
〈3〉「戦略爆撃機」
「戦略爆撃機」は、空中待機から命令を受けて目標に向かい、途中で呼び戻すことが可能という特性があります。「ICBM(大陸間弾道ミサイル)」は、発射すれば呼び戻せません。
「SLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)」は、核戦争の最終段階まで温存が可能で、終結交渉の後ろ盾や最後の一撃を担えるという特性があります。
「戦術核兵器」は、彼我接近した戦場で用いられる核兵器です。
「戦術核兵器」は、登場時には、破壊力と使用効果が戦場に限定できる、使用可能な兵器と考えられ、1949年に創設されたNATOの防衛には、通常戦力の不足を補うため、多くの戦術核兵器が配備されました。
しかし、後に、「核兵器の特性」から、戦闘力として戦術核兵器を考えることは難しく、「戦術核戦争」と「戦略核戦争」の線引きは困難と考えられるようになりました。
ソ連軍事ドクトリンには「戦勝に必要な最大限の軍事力行使」がうたわれ、どんな形の核使用でもNATO軍が核を使用すれば、核の全面的な反撃をもって応じる方針があったのです。
◆核兵器の特性
核兵器のもっとも顕著な特性は、きわめて大きな「瞬時の大破壊力」です。
広島、長崎の惨状をみれば、その威力は一目瞭然です。
北朝鮮が、原爆の数百倍から数千倍も威力を持つ水爆を東京に落とした場合、一千万人から三千万人ぐらいの被害を出す可能性があります。
さらに、特性として超高温の熱、衝撃波や爆風、放射線、電磁パルスがあげられます。
電磁パルスは、強度や機器の遮断程度によっては、電子機器に重大な影響を与え、戦争遂行に重大な支障を来します。これは今日のハイテク兵器の大きな弱点です。
「瞬時の大破壊力」という特性から、核兵器が「実戦に使える決戦打撃兵力(対処力)」なのか、「敵国の先制核攻撃を抑止する」だけの兵器なのか、よく論争の的になってきました。
しかし日本に2つの原爆が落とされた以降の歴史において、核兵器は使われていないという現実があります。
◆抑止戦略の種類
抑止戦略には、「戦勝戦略による抑止」と「抑止戦略による抑止」があります。
前者は、戦えば我が勝つことを敵に事前に認識させて、侵略を思い止まらせるものです。
主として通常戦争の抑止に使われますが、ソ連は、核戦略においてもこの戦略を採りました。
後者は、戦って我が勝つことまでは目指さないが、敵に侵略目的の達成が不確実か、侵略に伴う損失が利益を上回ることを事前に認識させて、侵略を思い止まらせるものです。
主として核戦争の抑止に使われます。
米国は、冷戦終末期に、ソ連の「戦勝戦略」から生まれた先制攻撃の脅威を抑止するため、核戦争遂行能力が必要と考え、ソ連に似た戦略への転換を図りましたが、冷戦期の大部分は、後者の戦略でした。
核抑止は、核兵器を撃たれたら報復として撃ち返す「報復型抑止」(懲罰的抑止)が中心ですが、飛んでくる弾道ミサイルを撃ち落とす等の「拒否型抑止」もあります。
核の傘(拡大抑止)という同盟国への抑止力提供は、信頼性は疑問としても「報復型抑止」です。
スタンダードミサイル(SM-3)、パトリオットミサイル(PAC-3)、サード(THAAD)ミサイルなどのミサイル防衛(MD)は、「拒否型抑止」です。
「報復型抑止」が効果を発揮するには、「抑止の三原則」を満たす必要があります。
「抑止の三原則」
〈1〉(敵にとって耐え難い)報復を行う「実力」(能力)があること
〈2〉報復を行う「意志」があること
〈3〉我の実力と意志を平時から敵が「認識」していること
抑止には、戦争の生起を押し止めることだけではなく、いったん戦争が起こっても、戦争のエスカレーションを押し止める抑止=「交戦間の抑止」もあります。
以上、今回は【第1回】として、「核兵器の種類、核兵器の特性、抑止戦略の種類」について述べて参りました。
【第2回】では、「アメリカの核戦略の変遷と教訓」について論じます。
◆『大量報復戦略』
【第1回】では、「核兵器の種類、核兵器の特性、抑止戦略の種類」について述べましたが、今回の【第2回】では、「アメリカの核戦略の変遷と教訓」について論じます。
アイゼンハワー政権の核戦略のキャッチフレーズで、中欧でのソ連の大規模通常攻撃に対する抑止戦略として立案されましたが、核兵器を万能薬と考え、世界各地で頻発する局地戦までも核兵器の大量報復の脅しで抑止しようとしました。
この戦略は、次のような激しい批判を巻き起こしました。
〈1〉局地紛争が起こった場合、一挙に全面核戦争へエスカレートさせてしまう。
〈2〉相手に脅しを信じさせるのに無理があり、抑止効果に信憑性(信頼性)がおけない。
事実、その後も局地紛争は頻発しました。万能薬は効かなかったのです。
◆『段階的抑止戦略』
そのため「段階的抑止戦略」が打ち出されました。一挙には戦略核兵器の撃ち合いにエスカレートしないよう「戦術核兵器」を使用する「中間段階」が組み込まれたのです。
この戦略にも、次のような批判が出ました。
〈1〉「戦略核兵器」の優勢がなければ、相手の「戦略核兵器」による報復にエスカレートする危険がある。
〈2〉「戦術核兵器」の優勢もいずれ消える。
◆『柔軟反応戦略』
ケネディー・ジョンソン政権の核戦略と通常戦略を総称して「柔軟反応戦略」と呼びます。通常戦争には通常戦力で、という振り出しに戻りました。
この政権間に、核戦略のキャッチフレーズは、「損害限定」「確証破壊」「相互確証破壊」と変化しましたのです。
頻発する局地紛争の抑止・対処は通常戦力に依存させ、核抑止の対象は、米国及び同盟国への核攻撃とNATOへの大規模通常攻撃へと縮小しました。
◆『損害限定戦略』
1962年に登場した構想で、敵の第一撃(先制攻撃)を吸収したあと、まず敵の戦略核戦力に対し報復を行って、敵の第二次攻撃力を破壊し、米国の被る損害を限定します。
この際、敵の都市に対する攻撃をひとまず控え、これを人質として戦争の終結交渉を行います。
戦争の終結交渉が進展しない場合、敵の都市、工業地帯に対し、慎重にコントロールされた核攻撃を行って、交渉の圧力を増加しようとするものであり、「優勢勝ち」を狙うものでした。
◆『確証破壊戦略』
米国の核攻撃力増強も制限する必要があると考え、「確証破壊」=「敵が十分に計画された奇襲攻撃をわが部隊に加えてきたあとでも、その侵略国が社会として、生活できないようにする破壊力」という量的基準を設けました。
具体的には、ソ連の工業力の70%を破壊し、効果がほぼ頭打ちとなる核弾頭数は、200~400発と分かりました。この数を「最小限抑止力」といい、今日でも通用します。
「損害限定プラス確証破壊」という構想で、米国の核抑止戦略は1960年代半ばに確立したかに見えました。
◆『相互確証破壊戦略』(MAD)
ところが、1967年、抑止の重点は「損害限定」よりも「確証破壊」にあるとされ、1968年には、「相互確証破壊」(互いに破壊を防ぎ得ない無能力さ)が、「双方にとって戦略核戦争を避けようとする最大かつ可能な動機」になるとの戦略が推進されるようになりました。
アメリカの実業家、政治家で、1961年から1968年までケネディ、ジョンソン大統領の下で国防長官を務めたマクナマラは、「恐怖の均衡」の安定化(戦略的安定性=軍拡競争の防止)へ、ソ連と軍備管理交渉を始め、軍拡競争の防止は、ソ連に受け入れられたと判断しました。
しかし、ニクソン政権は、「相互確証破壊戦略」の問題に気づきます。
〈1〉抑止が破れれば、確証破壊に匹敵する大損害を被る恐れがある。
〈2〉これに怖気づけば降伏するしかない。
即ち、対応策が事実上「オール・オア・ナッシング」という問題です。
〈3〉また、同盟国に対する核攻撃があった場合、米国はソ連の再報復によって米本土も大損害を被ることを恐れて報復に踏み切れないのではないか、という疑問が生じました。
◆『シュレジンジャー・ドクトリン』(『限定核オプション』、『選択反応戦略』)
1973年、「全面核戦争に至らない侵略(限定核攻撃)に対し、攻撃規模に応じた核反撃を行う」という「シュレンジャー・ドクトリン」が出されました。
「損害限定戦略」が「核優勢」を背景に、相手の残存核戦略を撃破して「優勢勝ち」を収めることを企図したのに対して、「シュレンジャー・ドクトリン」は、「核均衡」を背景に、戦闘の低いレベルで核の撃ち合いを止めることに相違がありました。
核均衡下においても、米国は核攻撃に対して何もしないでは終わらせない、という決意表明であり、
「核攻撃の規模に応じた核反撃」を同盟国に約束することで、「核の傘」(拡大抑止)の保障を与えるものでした。
「攻撃の規模に応じた反撃」という基本構想は、冷戦終了まで継続されました。
◆『相殺戦略』
デタント(緊張緩和)は、蜃気楼であり、米国の一人相撲でした。
ソ連共産党政治局が「相互確証破壊」を受け入れても、ソ連参謀本部は受け入れていなかったのです。
ソ連参謀本部は、「集中的な先制核攻撃で米国の核戦力を壊滅するとともに、政治経済中枢を破壊する」先制攻撃論を維持し、核戦争の長期化さえ考えていました。
ソ連は核戦力を増強し続け、先制攻撃で米国の全ICBM戦力を壊滅できる重ミサイルを配備し、「恐怖の不均衡」が出来上がりました。
カーター政権は、「恐怖の不均衡」を知って、「相殺戦略」を名づけた対抗策を取り、ソ連の重ミサイルに匹敵し、「緊急自動目標変更能力」を持つ核ミサイルの生産・配備を決定しました。
配備される1986年までの期間は、「脆弱性の窓」と呼ばれました。
特筆すべき点は、「目標設定」にクレムリンへの射撃を導入し、「政治中枢の破壊(断頭攻撃)」によるソ連の国家としての一体性の破壊を狙ったことです。
◆『SDI(戦略防衛構想)』
レーガン政権は、1983年3月、SDI(核攻撃の拒否型抑止)を提言しました。
SDIは、ソ連の弾道ミサイルに対し、レーザー兵器やレールガン等で防衛網を構成し、弾道ミサイルを無力化しようとするもので、究極の目的は「核廃絶」でした。
莫大な経費と技術力を要するSDIは、圧倒的にソ連に不利であったため、ソ連は軍備管理交渉に応じるようになり、ゴルバチョフの「ペレストロイカ(改革)」「グラスノスチ(情報公開)」の下、1991年、崩壊しました。
◆教訓
〈1〉核戦力で「局地侵略」を抑止することはできない。
〈2〉脅しは強いが、実際に使えそうもない戦略を立ててはならない。
〈3〉一面が優れていても他面に欠陥を持つ戦略を採用してはならない。
〈4〉我の合理的判断を敵も共有できると即断してはならない。
〈5〉「オール・オア・ナッシング」の選択しかできない戦略ではいけない。
〈6〉軍拡競争は、悪いものとされやすいが、そうでない場合もある。
〈7〉技術力と、それを支える経済力で、優位に立たねばならない。
以上、「アメリカの核戦略の変遷と教訓」を論じて参りましたが、【第3回】は、私案として「核装備プラス日本版SDI」を提案いたします。
◆北朝鮮の核の「脅威」に対する「抑止・対処戦略」
北朝鮮は、核兵器の小型化・弾頭化に至った可能性があり、将来的に核弾頭搭載可能な潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の配備に成功すれば、地上移動式発射型ミサイルの能力向上と併せて、核戦力の残存性が一層高まる危険性があります。
金正恩氏の強気の性格と、米国の「核の傘」の信憑性を考えれば、日本独自の抑止力構築が必要となります。
日本が北朝鮮の「核の脅し」に屈せず、核を撃ち込まれて一千万単位の被害を出さないためには、核装備(「報復型抑止」)と迎撃(「拒否型抑止」)の両方が必要です。
核装備は、原子力潜水艦からの巡航ミサイルを中心にします。敵から先制攻撃で潰されるのを避け、残存性を保つためです。また、日本は、核の「先制不使用」原則を徹底します。
「報復型抑止」は、唯物論国家に対しては、「政治中枢の破壊(断頭攻撃)」も組み込む必要があります。人権軽視の指導者には、兵器・軍隊・都市の壊滅や人民の大量殺傷さえ、抑止にならない場合があるからです。
金正恩氏の場合、深慮なき先制核攻撃や、第二次・第三次核攻撃、自暴自棄の核使用さえあり得るので、日本国民の生命・安全・財産を護るために、「拒否型抑止」も必要です。
核ミサイル攻撃を感知した場合は、潜水艦、ミサイル艦、航空機からの巡航ミサイルや、爆撃機、無人機等で、敵ミサイル基地を破壊します。
発射されてしまった核ミサイルに対しては、従来のイージス艦SM-3やPAC-3の他、早期に、レーザー迎撃システム、日本版THAAD等を開発して対処します。
◆中国の核の「脅威」に対する「抑止・対処戦略」
中国の「ロケット軍」は、核戦力と通常戦力の双方を兼ねて、第二撃核戦力の質的向上に取り組み、弾道ミサイルの個体燃料化、車両による移動方式への転換、MIRV化を推進しています。
中国の核戦略は、政治の優位、先行不使用宣言、核弾頭の漸増、平時は核弾頭を外して保管、とされていますが、次のような論があります。
〈1〉先制不使用は柔軟な抑止政策を妨げる
〈2〉通常精密打撃兵器に対して核の先制不使用を適用すべきではない
〈3〉台湾進行作戦への大規模介入にも先制不使用を守るべきではない
実際には、トップの意志で、如何様にも運用されます。
アメリカは、中国が米本土に対して核弾道ミサイルを撃たなければ、東アジアでの限定的な核兵器使用に対しては、精密誘導型通常兵器、極超音速滑空ミサイル等で対処する可能性があります。
日米同盟が順調な関係であれば、対中国でも同盟は発動されるでしょうが、「核の傘」は原則ないと考えて戦略を組む必要があります。
日本が核装備をしてない段階で、「日米同盟の破棄」、「沖縄からの米軍撤退」、「中国による台湾占領」のいずれかが起きた場合、シーレーンは中国に押さえられ、日本隷属化は確実になります。
仮に通常戦力でいかに優勢であったとしても、核使用のエスカレーションには、なすすべがなく、意志の強要に対して抵抗ができないからです。
日米同盟の持続・強化は、今後も決定的に重要ですが、リスクや将来展望を考慮して戦略を立案すれば、「核装備プラス日本版SDI」となります。
◆「核装備プラス日本版SDI(私案)」
日本の核による「報復型抑止」は、原子力潜水艦からの巡航ミサイルと弾道ミサイルで対処します。
「政治中枢の破壊(断頭攻撃)」を組み込み、中国の核戦力破壊を重視して、運用計画を幾通りも作り、念のため、「最小限抑止力」200~400発は確保します。
「拒否型抑止」力としては、大量の核ミサイルにも対処可能な、レーザー、マイクロウェーブ、レールガンなどの兵器開発に速やかに着手します。
特にレーザー、マイクロウェーブの技術は、他の追随を許さない圧倒的な技術力を追究し、あらゆる核兵器や通常兵器を短時間で大量に無力化できるレベルまで、開発を進めます。
合わせて、宇宙技術、サイバー技術でも中国を圧倒し、さらに他の種類の、核兵器無力化技術も、最先端で研究し、やがては「核廃絶」の道を拓きます。
また、その技術開発成功までの「脆弱性の窓」にも手を打ちます。
最重要は、日米同盟強化で、米軍の沖縄駐留と巻き込みが鍵ですが、他の一つは、通常戦力の増強です。
特に、「巡航ミサイル」「抗堪性」「兵站力」は飛躍的に増大させる必要があります。
以下に一例を挙げます。
◆「A2/AD(接近阻止/領域拒否)」と「エアシーバトル(ASB)」
「接近阻止」(A2)とは、米軍部隊の戦域への展開を遅延させる、あるいは紛争の現場からはるかに遠い距離から作戦させようとする行動です。
「領域拒否」(AD)とは、敵が領域内での米軍の作戦を妨害しようとする行動です。
中国の「A2/AD」戦略に対抗する米軍の戦略構想として、「エアシーバトル」があります。
「エアシーバトル」は、統合部隊による敵への縦深(宇宙・サイバー・航空・地上・海洋領域)攻撃を中心思想とする戦争構想です。
この構想は、米軍が本格的戦いに突入すれば、圧勝が予想されますが、弱点は、中国の先制大攻撃に対して、米軍が本格的反攻に入るまで、数週間はかかることです。
例えば、中国が、台湾や沖縄への侵攻前に、北朝鮮を使って、沖縄上空で核爆発を起こさせたとします。
米軍や家族は退避し、いわゆる人質効果さえなくなります。
米軍の反攻が始まるまでの間、自衛隊は、第一列島線の島嶼を中国人民解放軍に占領されないよう、自力で有効に戦い続けねばなりません。
そのためには、敵のミサイル基地等を潰せる「巡航ミサイル」の大量配備が必要ですし、先制攻撃やその後のミサイル攻撃による被害を防ぐシェルターも必要です。
装備や弾薬、燃料、食糧等の分散大量備蓄シェルターや、地下生産設備等も要りますし、当然、国民を護るシェルターが要ります。
「戦略は環境に対応」しますので、今後も戦略は進化するべきですが、まずは、日本も「核装備」をしなければ間に合わないことを肝に銘じたいと思います。
参照:
『世界を導く日本の正義』大川隆法著
『戦略の強化書』西村繁樹著
『現代アメリカの軍事戦略と日本』山田浩著
『核戦争計画』丸山浩行著
『米中軍事対決』河津幸英著
◆危機に立つ日本
「水爆」実験や長距離弾道ミサイル発射で、核ミサイル保有を進める北朝鮮ですが、28日にも午前と午後に、中距離弾道ミサイル「ムスダン」を一発ずつ発射しました。
韓国軍は、いずれも「発射直後、数秒以内に墜落した」と分析しています。ちなみに「ムスダン」は、射程3000~4000キロメートルのミサイルです。
また軍事的に膨張する中国(2016年度の中国国防費は、公表分だけで約16.7兆円、28年間で約44倍)、日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増しています。
朝鮮半島、尖閣諸島・沖縄、台湾海峡、ベトナムやフィリピン近海等は、紛争の発火点として、いつ起きておかしくない状態にあります。
幸福実現党は、日本を護り抜き、「世界の正義」を推し進めるために、以下を取り組みます。
〈1〉「言論・思想戦」
〈2〉「外交戦」=「日米同盟」を強化(「米中同盟」を阻止)し、インド、ロシア、台湾、オーストラリア、モンゴル、東南アジア諸国、島嶼国などと友好を促進、経済・安保両面で連携強化を図り、中国や北朝鮮の民主化・自由化を促すための外交
〈3〉「強靭な防衛力」の構築
◆正当防衛としての核装備
中国や北朝鮮からの「核を使っての恫喝や侵略」を思い止まらせる抑止力強化へ、正当防衛としての核装備も進めます。
核兵器の最大の効能は、「他の核兵器保有国に核兵器を使わせない」ということです。
「中国や北朝鮮が核兵器を使った場合には、日本からも核兵器を使われる可能性がある」ということが最大の抑止力になるわけです。
以下、核抑止の理解を深め、日本の核抑止戦略、防衛戦略を考察するために、3回に分けてと論を進めて参ります。
第1回は、核兵器の種類、核兵器の特性、抑止戦略の種類
第2回は、アメリカの核戦略の変遷と教訓
第3回は、核装備プラス日本版SDI(私案)
◆核兵器の種類
核兵器の種類には大別して「戦略核兵器」と「戦術核兵器」があります。中間に「戦域核戦力」(後に「中距離核戦力」)と改称)はありますが、詳述は省きます。
「戦略核兵器」は、敵国の戦略核戦力や政治・経済中枢に対する攻撃に用いられ、戦争の決をつける核兵器であるため、「戦略」の名が冠せられます。
対ソ冷戦期の米国の「戦略核戦力」の態勢は、同時に一挙に破壊されないよう(「抗堪性(こうたんせい)」の保持)、次の「三本柱」で成り立っていました。
〈1〉「大陸間弾道ミサイル(ICBM)」
〈2〉「潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)」
〈3〉「戦略爆撃機」
「戦略爆撃機」は、空中待機から命令を受けて目標に向かい、途中で呼び戻すことが可能という特性があります。「ICBM(大陸間弾道ミサイル)」は、発射すれば呼び戻せません。
「SLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)」は、核戦争の最終段階まで温存が可能で、終結交渉の後ろ盾や最後の一撃を担えるという特性があります。
「戦術核兵器」は、彼我接近した戦場で用いられる核兵器です。
「戦術核兵器」は、登場時には、破壊力と使用効果が戦場に限定できる、使用可能な兵器と考えられ、1949年に創設されたNATOの防衛には、通常戦力の不足を補うため、多くの戦術核兵器が配備されました。
しかし、後に、「核兵器の特性」から、戦闘力として戦術核兵器を考えることは難しく、「戦術核戦争」と「戦略核戦争」の線引きは困難と考えられるようになりました。
ソ連軍事ドクトリンには「戦勝に必要な最大限の軍事力行使」がうたわれ、どんな形の核使用でもNATO軍が核を使用すれば、核の全面的な反撃をもって応じる方針があったのです。
◆核兵器の特性
核兵器のもっとも顕著な特性は、きわめて大きな「瞬時の大破壊力」です。
広島、長崎の惨状をみれば、その威力は一目瞭然です。
北朝鮮が、原爆の数百倍から数千倍も威力を持つ水爆を東京に落とした場合、一千万人から三千万人ぐらいの被害を出す可能性があります。
さらに、特性として超高温の熱、衝撃波や爆風、放射線、電磁パルスがあげられます。
電磁パルスは、強度や機器の遮断程度によっては、電子機器に重大な影響を与え、戦争遂行に重大な支障を来します。これは今日のハイテク兵器の大きな弱点です。
「瞬時の大破壊力」という特性から、核兵器が「実戦に使える決戦打撃兵力(対処力)」なのか、「敵国の先制核攻撃を抑止する」だけの兵器なのか、よく論争の的になってきました。
しかし日本に2つの原爆が落とされた以降の歴史において、核兵器は使われていないという現実があります。
◆抑止戦略の種類
抑止戦略には、「戦勝戦略による抑止」と「抑止戦略による抑止」があります。
前者は、戦えば我が勝つことを敵に事前に認識させて、侵略を思い止まらせるものです。
主として通常戦争の抑止に使われますが、ソ連は、核戦略においてもこの戦略を採りました。
後者は、戦って我が勝つことまでは目指さないが、敵に侵略目的の達成が不確実か、侵略に伴う損失が利益を上回ることを事前に認識させて、侵略を思い止まらせるものです。
主として核戦争の抑止に使われます。
米国は、冷戦終末期に、ソ連の「戦勝戦略」から生まれた先制攻撃の脅威を抑止するため、核戦争遂行能力が必要と考え、ソ連に似た戦略への転換を図りましたが、冷戦期の大部分は、後者の戦略でした。
核抑止は、核兵器を撃たれたら報復として撃ち返す「報復型抑止」(懲罰的抑止)が中心ですが、飛んでくる弾道ミサイルを撃ち落とす等の「拒否型抑止」もあります。
核の傘(拡大抑止)という同盟国への抑止力提供は、信頼性は疑問としても「報復型抑止」です。
スタンダードミサイル(SM-3)、パトリオットミサイル(PAC-3)、サード(THAAD)ミサイルなどのミサイル防衛(MD)は、「拒否型抑止」です。
「報復型抑止」が効果を発揮するには、「抑止の三原則」を満たす必要があります。
「抑止の三原則」
〈1〉(敵にとって耐え難い)報復を行う「実力」(能力)があること
〈2〉報復を行う「意志」があること
〈3〉我の実力と意志を平時から敵が「認識」していること
抑止には、戦争の生起を押し止めることだけではなく、いったん戦争が起こっても、戦争のエスカレーションを押し止める抑止=「交戦間の抑止」もあります。
以上、今回は【第1回】として、「核兵器の種類、核兵器の特性、抑止戦略の種類」について述べて参りました。
【第2回】では、「アメリカの核戦略の変遷と教訓」について論じます。
◆『大量報復戦略』
【第1回】では、「核兵器の種類、核兵器の特性、抑止戦略の種類」について述べましたが、今回の【第2回】では、「アメリカの核戦略の変遷と教訓」について論じます。
アイゼンハワー政権の核戦略のキャッチフレーズで、中欧でのソ連の大規模通常攻撃に対する抑止戦略として立案されましたが、核兵器を万能薬と考え、世界各地で頻発する局地戦までも核兵器の大量報復の脅しで抑止しようとしました。
この戦略は、次のような激しい批判を巻き起こしました。
〈1〉局地紛争が起こった場合、一挙に全面核戦争へエスカレートさせてしまう。
〈2〉相手に脅しを信じさせるのに無理があり、抑止効果に信憑性(信頼性)がおけない。
事実、その後も局地紛争は頻発しました。万能薬は効かなかったのです。
◆『段階的抑止戦略』
そのため「段階的抑止戦略」が打ち出されました。一挙には戦略核兵器の撃ち合いにエスカレートしないよう「戦術核兵器」を使用する「中間段階」が組み込まれたのです。
この戦略にも、次のような批判が出ました。
〈1〉「戦略核兵器」の優勢がなければ、相手の「戦略核兵器」による報復にエスカレートする危険がある。
〈2〉「戦術核兵器」の優勢もいずれ消える。
◆『柔軟反応戦略』
ケネディー・ジョンソン政権の核戦略と通常戦略を総称して「柔軟反応戦略」と呼びます。通常戦争には通常戦力で、という振り出しに戻りました。
この政権間に、核戦略のキャッチフレーズは、「損害限定」「確証破壊」「相互確証破壊」と変化しましたのです。
頻発する局地紛争の抑止・対処は通常戦力に依存させ、核抑止の対象は、米国及び同盟国への核攻撃とNATOへの大規模通常攻撃へと縮小しました。
◆『損害限定戦略』
1962年に登場した構想で、敵の第一撃(先制攻撃)を吸収したあと、まず敵の戦略核戦力に対し報復を行って、敵の第二次攻撃力を破壊し、米国の被る損害を限定します。
この際、敵の都市に対する攻撃をひとまず控え、これを人質として戦争の終結交渉を行います。
戦争の終結交渉が進展しない場合、敵の都市、工業地帯に対し、慎重にコントロールされた核攻撃を行って、交渉の圧力を増加しようとするものであり、「優勢勝ち」を狙うものでした。
◆『確証破壊戦略』
米国の核攻撃力増強も制限する必要があると考え、「確証破壊」=「敵が十分に計画された奇襲攻撃をわが部隊に加えてきたあとでも、その侵略国が社会として、生活できないようにする破壊力」という量的基準を設けました。
具体的には、ソ連の工業力の70%を破壊し、効果がほぼ頭打ちとなる核弾頭数は、200~400発と分かりました。この数を「最小限抑止力」といい、今日でも通用します。
「損害限定プラス確証破壊」という構想で、米国の核抑止戦略は1960年代半ばに確立したかに見えました。
◆『相互確証破壊戦略』(MAD)
ところが、1967年、抑止の重点は「損害限定」よりも「確証破壊」にあるとされ、1968年には、「相互確証破壊」(互いに破壊を防ぎ得ない無能力さ)が、「双方にとって戦略核戦争を避けようとする最大かつ可能な動機」になるとの戦略が推進されるようになりました。
アメリカの実業家、政治家で、1961年から1968年までケネディ、ジョンソン大統領の下で国防長官を務めたマクナマラは、「恐怖の均衡」の安定化(戦略的安定性=軍拡競争の防止)へ、ソ連と軍備管理交渉を始め、軍拡競争の防止は、ソ連に受け入れられたと判断しました。
しかし、ニクソン政権は、「相互確証破壊戦略」の問題に気づきます。
〈1〉抑止が破れれば、確証破壊に匹敵する大損害を被る恐れがある。
〈2〉これに怖気づけば降伏するしかない。
即ち、対応策が事実上「オール・オア・ナッシング」という問題です。
〈3〉また、同盟国に対する核攻撃があった場合、米国はソ連の再報復によって米本土も大損害を被ることを恐れて報復に踏み切れないのではないか、という疑問が生じました。
◆『シュレジンジャー・ドクトリン』(『限定核オプション』、『選択反応戦略』)
1973年、「全面核戦争に至らない侵略(限定核攻撃)に対し、攻撃規模に応じた核反撃を行う」という「シュレンジャー・ドクトリン」が出されました。
「損害限定戦略」が「核優勢」を背景に、相手の残存核戦略を撃破して「優勢勝ち」を収めることを企図したのに対して、「シュレンジャー・ドクトリン」は、「核均衡」を背景に、戦闘の低いレベルで核の撃ち合いを止めることに相違がありました。
核均衡下においても、米国は核攻撃に対して何もしないでは終わらせない、という決意表明であり、
「核攻撃の規模に応じた核反撃」を同盟国に約束することで、「核の傘」(拡大抑止)の保障を与えるものでした。
「攻撃の規模に応じた反撃」という基本構想は、冷戦終了まで継続されました。
◆『相殺戦略』
デタント(緊張緩和)は、蜃気楼であり、米国の一人相撲でした。
ソ連共産党政治局が「相互確証破壊」を受け入れても、ソ連参謀本部は受け入れていなかったのです。
ソ連参謀本部は、「集中的な先制核攻撃で米国の核戦力を壊滅するとともに、政治経済中枢を破壊する」先制攻撃論を維持し、核戦争の長期化さえ考えていました。
ソ連は核戦力を増強し続け、先制攻撃で米国の全ICBM戦力を壊滅できる重ミサイルを配備し、「恐怖の不均衡」が出来上がりました。
カーター政権は、「恐怖の不均衡」を知って、「相殺戦略」を名づけた対抗策を取り、ソ連の重ミサイルに匹敵し、「緊急自動目標変更能力」を持つ核ミサイルの生産・配備を決定しました。
配備される1986年までの期間は、「脆弱性の窓」と呼ばれました。
特筆すべき点は、「目標設定」にクレムリンへの射撃を導入し、「政治中枢の破壊(断頭攻撃)」によるソ連の国家としての一体性の破壊を狙ったことです。
◆『SDI(戦略防衛構想)』
レーガン政権は、1983年3月、SDI(核攻撃の拒否型抑止)を提言しました。
SDIは、ソ連の弾道ミサイルに対し、レーザー兵器やレールガン等で防衛網を構成し、弾道ミサイルを無力化しようとするもので、究極の目的は「核廃絶」でした。
莫大な経費と技術力を要するSDIは、圧倒的にソ連に不利であったため、ソ連は軍備管理交渉に応じるようになり、ゴルバチョフの「ペレストロイカ(改革)」「グラスノスチ(情報公開)」の下、1991年、崩壊しました。
◆教訓
〈1〉核戦力で「局地侵略」を抑止することはできない。
〈2〉脅しは強いが、実際に使えそうもない戦略を立ててはならない。
〈3〉一面が優れていても他面に欠陥を持つ戦略を採用してはならない。
〈4〉我の合理的判断を敵も共有できると即断してはならない。
〈5〉「オール・オア・ナッシング」の選択しかできない戦略ではいけない。
〈6〉軍拡競争は、悪いものとされやすいが、そうでない場合もある。
〈7〉技術力と、それを支える経済力で、優位に立たねばならない。
以上、「アメリカの核戦略の変遷と教訓」を論じて参りましたが、【第3回】は、私案として「核装備プラス日本版SDI」を提案いたします。
◆北朝鮮の核の「脅威」に対する「抑止・対処戦略」
北朝鮮は、核兵器の小型化・弾頭化に至った可能性があり、将来的に核弾頭搭載可能な潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の配備に成功すれば、地上移動式発射型ミサイルの能力向上と併せて、核戦力の残存性が一層高まる危険性があります。
金正恩氏の強気の性格と、米国の「核の傘」の信憑性を考えれば、日本独自の抑止力構築が必要となります。
日本が北朝鮮の「核の脅し」に屈せず、核を撃ち込まれて一千万単位の被害を出さないためには、核装備(「報復型抑止」)と迎撃(「拒否型抑止」)の両方が必要です。
核装備は、原子力潜水艦からの巡航ミサイルを中心にします。敵から先制攻撃で潰されるのを避け、残存性を保つためです。また、日本は、核の「先制不使用」原則を徹底します。
「報復型抑止」は、唯物論国家に対しては、「政治中枢の破壊(断頭攻撃)」も組み込む必要があります。人権軽視の指導者には、兵器・軍隊・都市の壊滅や人民の大量殺傷さえ、抑止にならない場合があるからです。
金正恩氏の場合、深慮なき先制核攻撃や、第二次・第三次核攻撃、自暴自棄の核使用さえあり得るので、日本国民の生命・安全・財産を護るために、「拒否型抑止」も必要です。
核ミサイル攻撃を感知した場合は、潜水艦、ミサイル艦、航空機からの巡航ミサイルや、爆撃機、無人機等で、敵ミサイル基地を破壊します。
発射されてしまった核ミサイルに対しては、従来のイージス艦SM-3やPAC-3の他、早期に、レーザー迎撃システム、日本版THAAD等を開発して対処します。
◆中国の核の「脅威」に対する「抑止・対処戦略」
中国の「ロケット軍」は、核戦力と通常戦力の双方を兼ねて、第二撃核戦力の質的向上に取り組み、弾道ミサイルの個体燃料化、車両による移動方式への転換、MIRV化を推進しています。
中国の核戦略は、政治の優位、先行不使用宣言、核弾頭の漸増、平時は核弾頭を外して保管、とされていますが、次のような論があります。
〈1〉先制不使用は柔軟な抑止政策を妨げる
〈2〉通常精密打撃兵器に対して核の先制不使用を適用すべきではない
〈3〉台湾進行作戦への大規模介入にも先制不使用を守るべきではない
実際には、トップの意志で、如何様にも運用されます。
アメリカは、中国が米本土に対して核弾道ミサイルを撃たなければ、東アジアでの限定的な核兵器使用に対しては、精密誘導型通常兵器、極超音速滑空ミサイル等で対処する可能性があります。
日米同盟が順調な関係であれば、対中国でも同盟は発動されるでしょうが、「核の傘」は原則ないと考えて戦略を組む必要があります。
日本が核装備をしてない段階で、「日米同盟の破棄」、「沖縄からの米軍撤退」、「中国による台湾占領」のいずれかが起きた場合、シーレーンは中国に押さえられ、日本隷属化は確実になります。
仮に通常戦力でいかに優勢であったとしても、核使用のエスカレーションには、なすすべがなく、意志の強要に対して抵抗ができないからです。
日米同盟の持続・強化は、今後も決定的に重要ですが、リスクや将来展望を考慮して戦略を立案すれば、「核装備プラス日本版SDI」となります。
◆「核装備プラス日本版SDI(私案)」
日本の核による「報復型抑止」は、原子力潜水艦からの巡航ミサイルと弾道ミサイルで対処します。
「政治中枢の破壊(断頭攻撃)」を組み込み、中国の核戦力破壊を重視して、運用計画を幾通りも作り、念のため、「最小限抑止力」200~400発は確保します。
「拒否型抑止」力としては、大量の核ミサイルにも対処可能な、レーザー、マイクロウェーブ、レールガンなどの兵器開発に速やかに着手します。
特にレーザー、マイクロウェーブの技術は、他の追随を許さない圧倒的な技術力を追究し、あらゆる核兵器や通常兵器を短時間で大量に無力化できるレベルまで、開発を進めます。
合わせて、宇宙技術、サイバー技術でも中国を圧倒し、さらに他の種類の、核兵器無力化技術も、最先端で研究し、やがては「核廃絶」の道を拓きます。
また、その技術開発成功までの「脆弱性の窓」にも手を打ちます。
最重要は、日米同盟強化で、米軍の沖縄駐留と巻き込みが鍵ですが、他の一つは、通常戦力の増強です。
特に、「巡航ミサイル」「抗堪性」「兵站力」は飛躍的に増大させる必要があります。
以下に一例を挙げます。
◆「A2/AD(接近阻止/領域拒否)」と「エアシーバトル(ASB)」
「接近阻止」(A2)とは、米軍部隊の戦域への展開を遅延させる、あるいは紛争の現場からはるかに遠い距離から作戦させようとする行動です。
「領域拒否」(AD)とは、敵が領域内での米軍の作戦を妨害しようとする行動です。
中国の「A2/AD」戦略に対抗する米軍の戦略構想として、「エアシーバトル」があります。
「エアシーバトル」は、統合部隊による敵への縦深(宇宙・サイバー・航空・地上・海洋領域)攻撃を中心思想とする戦争構想です。
この構想は、米軍が本格的戦いに突入すれば、圧勝が予想されますが、弱点は、中国の先制大攻撃に対して、米軍が本格的反攻に入るまで、数週間はかかることです。
例えば、中国が、台湾や沖縄への侵攻前に、北朝鮮を使って、沖縄上空で核爆発を起こさせたとします。
米軍や家族は退避し、いわゆる人質効果さえなくなります。
米軍の反攻が始まるまでの間、自衛隊は、第一列島線の島嶼を中国人民解放軍に占領されないよう、自力で有効に戦い続けねばなりません。
そのためには、敵のミサイル基地等を潰せる「巡航ミサイル」の大量配備が必要ですし、先制攻撃やその後のミサイル攻撃による被害を防ぐシェルターも必要です。
装備や弾薬、燃料、食糧等の分散大量備蓄シェルターや、地下生産設備等も要りますし、当然、国民を護るシェルターが要ります。
「戦略は環境に対応」しますので、今後も戦略は進化するべきですが、まずは、日本も「核装備」をしなければ間に合わないことを肝に銘じたいと思います。
参照:
『世界を導く日本の正義』大川隆法著
『戦略の強化書』西村繁樹著
『現代アメリカの軍事戦略と日本』山田浩著
『核戦争計画』丸山浩行著
『米中軍事対決』河津幸英著
スポンサーサイト
2016.04.29
「正義の国・日本!」―満州事変から大東亜戦争まで
この文章は、2015年10月16日にHRPニュースファイルへ、3回にわたり寄稿させていただいたものです。
◆満州事変と満州国建国の経緯
コミンテルン(共産主義インターナショナル)にそそのかされた反日侮日運動が過激化し、張学良軍、馬賊、匪賊による、誘拐、略奪、恐喝が横行する満州で、1931年9月18日、一万数千人の関東軍は、30万とも45万ともいわれた張学良軍を追放しました。(満州事変)
政府や陸軍中央も知らないところで起きたのは問題であり、政治的リーダーシップの欠如(幣原外交)や明治憲法の欠陥(統帥権干犯問題)等、改善すべき点はあったにせよ、日本人居留民に危害が及ぶ危機的状況を、自衛のためにも解決せざるを得なかったというのが、満州事変の真相でした。
翌1932年3月、関東軍の主導で、清朝最後の皇帝溥儀(フギ)をトップに迎えて、満州国を建国しました。大臣たちは全員、満州人か清朝の忠臣としました。
1911年の辛亥革命で、満州族王朝清から、漢民族(シナ人)が独立し、日本公使館に逃げ込んだ溥儀の、切なる希望が満州国でした。満州国は、民族自決という観点からも理にかなっていたのです。
漢民族と満州民族は別の民族であり、万里の長城以北は、シナ固有の領土とは言えません。
シナを支配したことがある民族の故郷はシナの領土だと言うなら、インドを支配したことがあるイギリスは、インドの領土だという論理になるからです。
満州国は、「五属共和」(満州民族、漢民族、蒙古民族、朝鮮民族、日本民族の共存共栄)を建国の精神として、安定した治安、安心できる生産活動、商業活動を提供し、奇跡と言えるほど発展しました。
塗炭の苦しみに喘いでいた不法の土地、満州は、自動車や飛行機まで作ることができる一大近代国家、桃源郷へと変貌を遂げたのです。
◆満州事変と満州国建国は、日本の侵略ではない
もし、満州事変が侵略なら、例えば、チベットやウイグルをアメリカ軍が独立に導き、トップも大臣もすべてチベット人やウイグル人にし、実務は手伝って近代化を促し、人々があこがれる、安全で繁栄した理想的な国家ができたとしても、アメリカはチベットやウイグルに侵略したことになります。
この場合、アメリカ軍は、チベット人やウイグル人の夢である独立を支援し、繁栄と幸福をもたらしたと言うべきであって、侵略と呼ぶべきではありません。
満州事変と満州国建国は、人々に幸福をもたらした正当な行為であり、日本の侵略ではないのです。
◆日中戦争(支那事変)の経緯(1)――[盧溝橋事件]
1937年7月7日、「盧溝橋事件」は、蒋介石の国民政府軍に潜り込んだ中国共産党軍のスパイが、日本軍と国民政府軍の衝突を作り出し、「漁夫の利」を得るために発砲したことから始まりました。
それでも日本軍は攻撃せず、7月11日に事態収拾のための現地協定を成立させましたが、共産党スパイが繰り返す発砲に勘違いした国民政府軍が攻撃してきて、日本軍は「巻き込まれた」というのが真相です。
◆日中戦争の経緯(2)――[通州事件]
日本の不拡大方針が堅持される中、国民政府が一転して対日交戦を決定、7月29日には「通州事件」が起き、200人以上の日本人が、人間とは思えない方法で惨殺されました。
この報は日本にも伝わり、日本国民の怒りは頂点に達しました。
◆日中戦争の経緯(3)――[第二次上海事変]
盧溝橋で始まった事変は、北支事変として収束に向かいましたが、本格的な「支那事変」は1937年8月13日、上海地区における中国側の攻撃に始まりました。
日本の海軍陸戦隊約4千人が、軽武装で日本人居留民を守っているところに、コミンテルンの手先、張治中(チョウジチュウ)将軍が、約5万の大軍で攻撃してきました。
翌8月14日、蒋介石軍は、アメリカから提供された戦闘機で、シナ人を中心とする民間人がいるホテルや避難所を攻撃して、3600名余りを死傷させ、「キリスト教の中国が、異教の日本に蹂躙されている」イメージの情報戦を展開しました。
日本は通州事件のような惨劇を繰り返さないために、陸軍を派遣しましたが、蒋介石が招いたドイツのゼークト大将(防御陣地造りの権威)による作戦で、日本軍は約4万もの大損害が出ました。
その後、南京攻略への上陸作戦で、上海の背後を衝く形をとったことで、中国軍は総くずれになりました。
◆日中戦争の経緯(4)――[南京攻略]
日本は、首都をおさえれば蒋介石も講和に応じるだろうと考え、南京攻略を決断しました。
日本軍は、世界一の規律を守る人道的な軍隊でしたが、南京攻略戦でも、松井石根大将は、後世の模範となる行動をするべく全軍に訓令を出し、軍規を徹底して、終始、立派な指揮をしました。
日本は、住民に被害が出ないように、国民政府軍にオープン・シティ勧告を出しましたが、蒋介石は、勧告を受け入れず、市民を置き去りにして脱出してしまいました。
ドイツ軍に対するパリの如く、オープン・シティにすれば被害が出ないのに、しなかった責任は蒋介石にあります。
日本軍は、慎重に、攻略前にも投降勧告を出し、拒否を確認してから、1937年12月10日、攻撃を開始しました。蒋介石に任された唐生智(トウセイチ)将軍も途中脱出してしまい、日本軍は13日には城内に入り、17日には正式に入城式が行われました。
市民の多くは日本軍が来る前に南京城内から逃げ、逃げ切れなかった市民が第三国がつくった「安全区」に避難しました。日本軍占領後は「南京は安全だ」と分かり市民が戻り始めると、約1か月後には、人口は25万~30万に増えています。
「南京大虐殺」という言いがかりは、中国共産党の覇権に悪用され、日本の自虐史観の原因にもなっていますが、東京裁判で、突如として捏造されたものです。東京大空襲や原爆投下の正当化のためにも、日本の戦争犯罪をでっち上げる必要があったからです。
日本人による虐殺など存在しなかったがゆえに、戦後になるまで噂さえ立たず、蒋介石も米英仏も、当時抗議したことがなく、多数駐在していた欧米マスコミからも指摘されず、東京裁判では実証できず、戦後出てきた「証拠写真」なるものは、すべてインチキと判明しているのです。
ハーグ陸戦規定により、便衣隊(ゲリラ)は、掃討し、処刑するのが国際常識ですが、これは虐殺とは呼びません。
◆日中戦争の経緯(5)――「欧米諸国の蒋介石支援」
日本は、上海、南京、広東、北京、天津、保定、武漢三鎮(漢口、漢陽、武昌)などの主要都市を皆占領しましたが、蒋介石は重慶の山の中に逃げていました。
米英ロシアが、資金、物資、兵器等を、蒋介石を支援し続けなければ、南京政府を作った汪兆銘と蒋介石を話し合わせ、日本軍が願い続けていた支那からの撤退が可能となったはずです。
ルーズベルトは、米退役将校シェンノート(中華民国空軍航空参謀長)の航空隊「フライング・タイガース」に、アメリカ人飛行士100人と飛行機500機の派兵までしました。日米開戦前の軍事的関与であり、重大な国際法違反です。
◆日中戦争(支那事変)は、日本の侵略戦争ではない
日中戦争は、すべて受け身で、支那側からの攻撃に対処していったものでした。
開戦責任は支那側にあり、日本陸軍は、引きずり込まれながら、一貫して終結を願い続けましたが、共産主義のスパイ活動、米英の蒋介石支援により、抜け出せなかったというのが真相です。
もし、支那事変が侵略なら、例えば、韓国軍が、突如、アメリカ民間人を大量虐殺し、在韓米軍を攻撃してきたため、米軍が救出に向かったら、アメリカは韓国を侵略したということになります。
そして、米軍が韓国に平和と秩序と繁栄を取り戻し、新たな韓国人リーダーを擁立して撤退しようとしても、もとの韓国軍が北朝鮮の山奥に立てこもり、中国やロシアが兵器や物資、資金を供給し続けるために、撤退できずにいたら、アメリカは韓国を侵略し続けている、ということになります。
つまり、支那事変が日本の侵略戦争なら、朝鮮戦争もベトナム戦争も、アメリカの侵略戦争ということになりますし、世界のほとんどの紛争を侵略戦争と呼ぶことになります。
ですから、支那事変を日本の侵略戦争とするのは不当であると結論づけられます。
◆大東亜戦争の原因(1)――「人種差別による日本人排斥」
1919年、日本はパリ会議で、国際連盟規約への「人種差別撤廃条項」を提案し、賛成多数になるも、議長のアメリカ大統領ウィルソンは否決しました。
以後、アメリカの排日運動は勢いづき、1924年5月には、「絶対的排日移民法」が成立しました。
これで、親米的だった大部分の日本人が反米に変わり、日本政府のアメリカ協調外交も難しくなっていきました。
昭和天皇は、戦後「この大戦の遠因はアメリカ移民の問題であり、近因は石油が禁輸されたことである」との主旨を言われましたが、正鵠を得ていたと思います。
そして、正義は、「人種差別撤廃」「植民地解放」を目指した日本にあったからこそ、戦後のアジア・アフリカ諸国は、独立していったのです。
◆大東亜戦争の原因(2)――「共産主義の工作」
1930年代のアメリカ政府には、共産主義のスパイが何百人も入り込んでおり、「ハル・ノート」を作成した財務次官補ハリー・ホワイトもソ連のスパイでした。
戦後の朝鮮戦争、ソ連との冷戦、ベトナム戦争、中共の台頭を見れば、共産主義を悪と見て、防共に努めた日本に、正義があったと言えます。
◆大東亜戦争の原因(3)――「ホーリイ・スムート法に始まったブロック経済」
1929年、アメリカ下院議会に上程されたホーリイ・スムート法が、世界恐慌の決定打となりました。約1000品目の巨大な関税障壁により、一年後には、世界の貿易量が半分になりました。
1933年のオタワ会議で、イギリスもブロック経済に入りました。
アウタルキー(自国で出る原料・資源で経済的なことが完結できる政府)ができるアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソ連は良くても、アウタルキーができない日本、ドイツ、イタリアには、致命的な問題でした。
戦後、ブレトン・ウッズ体制をとって自由貿易を推進したのは、ブロック経済、保護主義が、先の大戦の遠因だとわかったからです。
◆大東亜戦争の原因(4)――「石油禁輸とABCD包囲網」
アメリカ、イギリス、シナ、オランダを抱き込んだABCD包囲網で、日本は資産を凍結され、石油や鉄など様々な原材料を輸入できなくなりましたが、致命的なのは石油禁輸でした。
大東亜戦争が自衛戦争であったことは、アメリカ上院軍事外交合同委員会におけるマッカーサーの証言でもわかります。
「日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何もないのです。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない、その他実に多くの原料が欠如…これらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。従って、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」(マッカーサー証言 抜粋)
大東亜戦争の原因として、日本からアメリカに仕掛けたことは何もありませんでしたが、ルーズベルトは、ドイツと戦うためにも、何がどうあろうと、日本を戦争に追い込むつもりでした。
1941年2月には、日本と戦って屈服させた後の処理を研究する「特別研究部(SR)」を発足させ、7月18日には、150機のB17爆撃機と、250機の戦闘機で東京、横浜、大阪、京都、神戸への爆撃作戦「JB-355」も承認していました。
(戦線が急迫したイギリスに爆撃機を回して実施はされず。)
◆大東亜戦争は、「自衛権の行使」「植民地解放」「人種差別撤廃」の聖戦
大東亜戦争は、人種差別による日本人排斥、共産主義の工作、ブロック経済とABCD包囲網の経済封鎖で追い込まれ、特に石油禁輸が決定打となった「自衛戦争」でした。
日本は、戦わざるを得なくなった以上、正義を貫くべく、全占領地域で現地政府を樹立し、自主独立への教育訓練、人種差別撤廃を推進しました。
大東亜戦争は、「欧米列強から、アジアの植民地を解放し、白人優位の人種差別政策を打ち砕くとともに、わが国の正当な自衛権の行使としてなされたもの」「アジアの同胞を解放するための聖戦として、日本の神々の熱き思いの一部を実現せしもの」(『大川談話』)だったのです。
大川談話―私案―
http://special.hr-party.jp/policy2013/okawa-danwa/
「大東亜戦争は神の意を受けた聖戦であり、激戦の地で戦死した先人たちは英雄である。」(真の平和に向けて あとがき)と断言し、筆を終えます。
※『真の平和に向けて』大川隆法著/幸福の科学出版
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=1464
◆満州事変と満州国建国の経緯
コミンテルン(共産主義インターナショナル)にそそのかされた反日侮日運動が過激化し、張学良軍、馬賊、匪賊による、誘拐、略奪、恐喝が横行する満州で、1931年9月18日、一万数千人の関東軍は、30万とも45万ともいわれた張学良軍を追放しました。(満州事変)
政府や陸軍中央も知らないところで起きたのは問題であり、政治的リーダーシップの欠如(幣原外交)や明治憲法の欠陥(統帥権干犯問題)等、改善すべき点はあったにせよ、日本人居留民に危害が及ぶ危機的状況を、自衛のためにも解決せざるを得なかったというのが、満州事変の真相でした。
翌1932年3月、関東軍の主導で、清朝最後の皇帝溥儀(フギ)をトップに迎えて、満州国を建国しました。大臣たちは全員、満州人か清朝の忠臣としました。
1911年の辛亥革命で、満州族王朝清から、漢民族(シナ人)が独立し、日本公使館に逃げ込んだ溥儀の、切なる希望が満州国でした。満州国は、民族自決という観点からも理にかなっていたのです。
漢民族と満州民族は別の民族であり、万里の長城以北は、シナ固有の領土とは言えません。
シナを支配したことがある民族の故郷はシナの領土だと言うなら、インドを支配したことがあるイギリスは、インドの領土だという論理になるからです。
満州国は、「五属共和」(満州民族、漢民族、蒙古民族、朝鮮民族、日本民族の共存共栄)を建国の精神として、安定した治安、安心できる生産活動、商業活動を提供し、奇跡と言えるほど発展しました。
塗炭の苦しみに喘いでいた不法の土地、満州は、自動車や飛行機まで作ることができる一大近代国家、桃源郷へと変貌を遂げたのです。
◆満州事変と満州国建国は、日本の侵略ではない
もし、満州事変が侵略なら、例えば、チベットやウイグルをアメリカ軍が独立に導き、トップも大臣もすべてチベット人やウイグル人にし、実務は手伝って近代化を促し、人々があこがれる、安全で繁栄した理想的な国家ができたとしても、アメリカはチベットやウイグルに侵略したことになります。
この場合、アメリカ軍は、チベット人やウイグル人の夢である独立を支援し、繁栄と幸福をもたらしたと言うべきであって、侵略と呼ぶべきではありません。
満州事変と満州国建国は、人々に幸福をもたらした正当な行為であり、日本の侵略ではないのです。
◆日中戦争(支那事変)の経緯(1)――[盧溝橋事件]
1937年7月7日、「盧溝橋事件」は、蒋介石の国民政府軍に潜り込んだ中国共産党軍のスパイが、日本軍と国民政府軍の衝突を作り出し、「漁夫の利」を得るために発砲したことから始まりました。
それでも日本軍は攻撃せず、7月11日に事態収拾のための現地協定を成立させましたが、共産党スパイが繰り返す発砲に勘違いした国民政府軍が攻撃してきて、日本軍は「巻き込まれた」というのが真相です。
◆日中戦争の経緯(2)――[通州事件]
日本の不拡大方針が堅持される中、国民政府が一転して対日交戦を決定、7月29日には「通州事件」が起き、200人以上の日本人が、人間とは思えない方法で惨殺されました。
この報は日本にも伝わり、日本国民の怒りは頂点に達しました。
◆日中戦争の経緯(3)――[第二次上海事変]
盧溝橋で始まった事変は、北支事変として収束に向かいましたが、本格的な「支那事変」は1937年8月13日、上海地区における中国側の攻撃に始まりました。
日本の海軍陸戦隊約4千人が、軽武装で日本人居留民を守っているところに、コミンテルンの手先、張治中(チョウジチュウ)将軍が、約5万の大軍で攻撃してきました。
翌8月14日、蒋介石軍は、アメリカから提供された戦闘機で、シナ人を中心とする民間人がいるホテルや避難所を攻撃して、3600名余りを死傷させ、「キリスト教の中国が、異教の日本に蹂躙されている」イメージの情報戦を展開しました。
日本は通州事件のような惨劇を繰り返さないために、陸軍を派遣しましたが、蒋介石が招いたドイツのゼークト大将(防御陣地造りの権威)による作戦で、日本軍は約4万もの大損害が出ました。
その後、南京攻略への上陸作戦で、上海の背後を衝く形をとったことで、中国軍は総くずれになりました。
◆日中戦争の経緯(4)――[南京攻略]
日本は、首都をおさえれば蒋介石も講和に応じるだろうと考え、南京攻略を決断しました。
日本軍は、世界一の規律を守る人道的な軍隊でしたが、南京攻略戦でも、松井石根大将は、後世の模範となる行動をするべく全軍に訓令を出し、軍規を徹底して、終始、立派な指揮をしました。
日本は、住民に被害が出ないように、国民政府軍にオープン・シティ勧告を出しましたが、蒋介石は、勧告を受け入れず、市民を置き去りにして脱出してしまいました。
ドイツ軍に対するパリの如く、オープン・シティにすれば被害が出ないのに、しなかった責任は蒋介石にあります。
日本軍は、慎重に、攻略前にも投降勧告を出し、拒否を確認してから、1937年12月10日、攻撃を開始しました。蒋介石に任された唐生智(トウセイチ)将軍も途中脱出してしまい、日本軍は13日には城内に入り、17日には正式に入城式が行われました。
市民の多くは日本軍が来る前に南京城内から逃げ、逃げ切れなかった市民が第三国がつくった「安全区」に避難しました。日本軍占領後は「南京は安全だ」と分かり市民が戻り始めると、約1か月後には、人口は25万~30万に増えています。
「南京大虐殺」という言いがかりは、中国共産党の覇権に悪用され、日本の自虐史観の原因にもなっていますが、東京裁判で、突如として捏造されたものです。東京大空襲や原爆投下の正当化のためにも、日本の戦争犯罪をでっち上げる必要があったからです。
日本人による虐殺など存在しなかったがゆえに、戦後になるまで噂さえ立たず、蒋介石も米英仏も、当時抗議したことがなく、多数駐在していた欧米マスコミからも指摘されず、東京裁判では実証できず、戦後出てきた「証拠写真」なるものは、すべてインチキと判明しているのです。
ハーグ陸戦規定により、便衣隊(ゲリラ)は、掃討し、処刑するのが国際常識ですが、これは虐殺とは呼びません。
◆日中戦争の経緯(5)――「欧米諸国の蒋介石支援」
日本は、上海、南京、広東、北京、天津、保定、武漢三鎮(漢口、漢陽、武昌)などの主要都市を皆占領しましたが、蒋介石は重慶の山の中に逃げていました。
米英ロシアが、資金、物資、兵器等を、蒋介石を支援し続けなければ、南京政府を作った汪兆銘と蒋介石を話し合わせ、日本軍が願い続けていた支那からの撤退が可能となったはずです。
ルーズベルトは、米退役将校シェンノート(中華民国空軍航空参謀長)の航空隊「フライング・タイガース」に、アメリカ人飛行士100人と飛行機500機の派兵までしました。日米開戦前の軍事的関与であり、重大な国際法違反です。
◆日中戦争(支那事変)は、日本の侵略戦争ではない
日中戦争は、すべて受け身で、支那側からの攻撃に対処していったものでした。
開戦責任は支那側にあり、日本陸軍は、引きずり込まれながら、一貫して終結を願い続けましたが、共産主義のスパイ活動、米英の蒋介石支援により、抜け出せなかったというのが真相です。
もし、支那事変が侵略なら、例えば、韓国軍が、突如、アメリカ民間人を大量虐殺し、在韓米軍を攻撃してきたため、米軍が救出に向かったら、アメリカは韓国を侵略したということになります。
そして、米軍が韓国に平和と秩序と繁栄を取り戻し、新たな韓国人リーダーを擁立して撤退しようとしても、もとの韓国軍が北朝鮮の山奥に立てこもり、中国やロシアが兵器や物資、資金を供給し続けるために、撤退できずにいたら、アメリカは韓国を侵略し続けている、ということになります。
つまり、支那事変が日本の侵略戦争なら、朝鮮戦争もベトナム戦争も、アメリカの侵略戦争ということになりますし、世界のほとんどの紛争を侵略戦争と呼ぶことになります。
ですから、支那事変を日本の侵略戦争とするのは不当であると結論づけられます。
◆大東亜戦争の原因(1)――「人種差別による日本人排斥」
1919年、日本はパリ会議で、国際連盟規約への「人種差別撤廃条項」を提案し、賛成多数になるも、議長のアメリカ大統領ウィルソンは否決しました。
以後、アメリカの排日運動は勢いづき、1924年5月には、「絶対的排日移民法」が成立しました。
これで、親米的だった大部分の日本人が反米に変わり、日本政府のアメリカ協調外交も難しくなっていきました。
昭和天皇は、戦後「この大戦の遠因はアメリカ移民の問題であり、近因は石油が禁輸されたことである」との主旨を言われましたが、正鵠を得ていたと思います。
そして、正義は、「人種差別撤廃」「植民地解放」を目指した日本にあったからこそ、戦後のアジア・アフリカ諸国は、独立していったのです。
◆大東亜戦争の原因(2)――「共産主義の工作」
1930年代のアメリカ政府には、共産主義のスパイが何百人も入り込んでおり、「ハル・ノート」を作成した財務次官補ハリー・ホワイトもソ連のスパイでした。
戦後の朝鮮戦争、ソ連との冷戦、ベトナム戦争、中共の台頭を見れば、共産主義を悪と見て、防共に努めた日本に、正義があったと言えます。
◆大東亜戦争の原因(3)――「ホーリイ・スムート法に始まったブロック経済」
1929年、アメリカ下院議会に上程されたホーリイ・スムート法が、世界恐慌の決定打となりました。約1000品目の巨大な関税障壁により、一年後には、世界の貿易量が半分になりました。
1933年のオタワ会議で、イギリスもブロック経済に入りました。
アウタルキー(自国で出る原料・資源で経済的なことが完結できる政府)ができるアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソ連は良くても、アウタルキーができない日本、ドイツ、イタリアには、致命的な問題でした。
戦後、ブレトン・ウッズ体制をとって自由貿易を推進したのは、ブロック経済、保護主義が、先の大戦の遠因だとわかったからです。
◆大東亜戦争の原因(4)――「石油禁輸とABCD包囲網」
アメリカ、イギリス、シナ、オランダを抱き込んだABCD包囲網で、日本は資産を凍結され、石油や鉄など様々な原材料を輸入できなくなりましたが、致命的なのは石油禁輸でした。
大東亜戦争が自衛戦争であったことは、アメリカ上院軍事外交合同委員会におけるマッカーサーの証言でもわかります。
「日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何もないのです。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない、その他実に多くの原料が欠如…これらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。従って、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」(マッカーサー証言 抜粋)
大東亜戦争の原因として、日本からアメリカに仕掛けたことは何もありませんでしたが、ルーズベルトは、ドイツと戦うためにも、何がどうあろうと、日本を戦争に追い込むつもりでした。
1941年2月には、日本と戦って屈服させた後の処理を研究する「特別研究部(SR)」を発足させ、7月18日には、150機のB17爆撃機と、250機の戦闘機で東京、横浜、大阪、京都、神戸への爆撃作戦「JB-355」も承認していました。
(戦線が急迫したイギリスに爆撃機を回して実施はされず。)
◆大東亜戦争は、「自衛権の行使」「植民地解放」「人種差別撤廃」の聖戦
大東亜戦争は、人種差別による日本人排斥、共産主義の工作、ブロック経済とABCD包囲網の経済封鎖で追い込まれ、特に石油禁輸が決定打となった「自衛戦争」でした。
日本は、戦わざるを得なくなった以上、正義を貫くべく、全占領地域で現地政府を樹立し、自主独立への教育訓練、人種差別撤廃を推進しました。
大東亜戦争は、「欧米列強から、アジアの植民地を解放し、白人優位の人種差別政策を打ち砕くとともに、わが国の正当な自衛権の行使としてなされたもの」「アジアの同胞を解放するための聖戦として、日本の神々の熱き思いの一部を実現せしもの」(『大川談話』)だったのです。
大川談話―私案―
http://special.hr-party.jp/policy2013/okawa-danwa/
「大東亜戦争は神の意を受けた聖戦であり、激戦の地で戦死した先人たちは英雄である。」(真の平和に向けて あとがき)と断言し、筆を終えます。
※『真の平和に向けて』大川隆法著/幸福の科学出版
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=1464
| Home |